昭和52年01月28日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
子孫も続き身代も出来、一年勝り、代勝りのおかげを受ける事が出来ると。ここのおかげを私共の願いの根本にしなけりゃならんと。だからどうでもここの所のおかげを頂く。無事達者、子孫も続き身代も出来、一年勝り、代勝りのおかげを受ける事が出来るぞと仰せられる様な信心とは、ならどういう信心をさせて頂いたら良いかと。只、目先目先のおかげを頂いて行くと言う様な事ではこういうおかげにはならない。勿論代勝りと仰られる、所謂お徳を受けるという事です。
神のおかげを知らぬから互い違いになってくる。いわゆるタイミングを外してしまう訳です。合楽ではこの素晴らしいタイミングを皆さんが体験しとられます。本当にお取り次を頂いて参りますと、それこそ万事万端の上に御都合お繰り合わせを頂いて、素晴らしいタイミングが生まれて来る。そういうタイミングがその一事だけではなくて、私共の様々な問題でもタイミングが生まれて来る。
そのタインミングが生まれて来ないのは、神のおかげを知らぬから、都合の良い事があると自分の才覚で出来た様に思うたり、自分がやったから出来たんだという風に思うたり、もう本当言うたら神様のおかげを頂いておるのにも関わらず、神様のおかげというものを小さくしたり亡くしたりしてしまう。神様のおかげをおかげと知らぬ。いわゆる自分の都合の良い様なおかげを頂くと、ああおかげだと言うね。お願いをする。金銭のお繰り合わせでも、物事一切お取次ぎを頂いて素晴らしいタイミングが生まれて来る。
お取次ぎ頂いて行かにゃでけんおかげを頂いたという。私は思うのに、神のおかげを知ればいよいよ神様の大恩が分かって来る様になる。神のおかげをおかげと分からせて貰う所に、いよいよ神恩報謝の心が生まれて来る。今日はこの神のおかげを知らぬから、又は神の大恩を知らぬからと言う所。神の大恩を知れば、只今申します様な結構なおかげになって来る。それは神の大恩、神様の言うなら御神徳の現れであるその様相というものを、私共が説明を聞くと、本当に天地を丸生かしにしてござる神様。
私共がこの神様のおかげを頂かなければ立ち行く事は出来ない神様。まあ言うならば、神のおかげを神の大恩を説明を受けて分かるという事は分かるのだけれども、此処で神の大恩を知ればと言う事は、その神の大恩に対してどれほど神恩報謝の心が生まれておかげと思うとりますという、そのおかげに思うとります昨日の御理解じゃないけれどもね。例えばお供えを一つさせて頂くでも、神のおかげをおかげと思うとりますだけではなくて、それが分かったから、どうかしなければおられないからお供えをする。
そのお供えが真だと、昨日頂いたんですね。言うなら神の大恩が分かり、神恩報謝の生活が出来、そこに神様にお応えする信心とは、そんならどう言う信心かと、思い練らせて頂く事が信心なんです。神のおかげを知っただけでは、本当に知ったとじゃない。知ったら、どうかしなければおられない。それを例えばなら、合楽示現活動なら、合楽示現活動にかけるとか、御用にかける、とかと言う事にならなければ、神の大恩を知った事にはならんのですよ。
金光様の御信心する者は、皆神様の大恩の説明をせろというなら誰でもしきりますよ、知っている訳です。だから知っとるだけではいけん、それを実感として頂き止める、神の大恩を大恩として頂き止めるという所にです、私共の心がいよいよ大きくならないと大きい御恩徳をキャッチ出来ないです。そこで阿倍野の先生じゃあないけれども、小さい芯では小さい光り、大きな芯ができりゃあ大きな光りが灯ると仰る様に、その芯を大きくして行かなければこの大恩という事は分からん。
芯をいよいよ大きくして行かなければです、言うならば大きな光を表す事が出来ん。その大きな光を表すという事が取りも直さず神様えの神恩報謝の真が光になって現れてくるんです。だから大恩を分かる為には大きい心にならなきゃ成らんと言う事が分かります。合楽で黙って治めると言った様な事が大変素晴らしい事だと言う事を、もう本当に治まるんです。黙って、どんなに言うなら目に余る様な事を見たり聞いたり、これは一口言うとかにゃと言った様な事でもじっとそれを自分の心に治めて。
それを神様へ向けて行くという生き方になっておけばです、いわゆるさんずい偏にムロです。自然に起きて来る事を無口で黙って頂くと言う事が治める。本当に治める事はそう言う事。神乍らに治まって行く。その神乍らに治まって行くと言う事が素晴らしいのです。皆さんがそこん所の体験は皆さんがなさっておられる。ほんなこつ親先生が言いなさる通りに言うちゃならんな、言わんで良かったなあこう言うおかげに成って来るんだからという体験は、皆さんがやはり日々頂いておられるでありましょうけれども。
時々は、今日はもう辛抱出来んで爆発したという風なことになるわけなんです。それはどう言う訳で爆発になるかと言うとね、只辛抱しとるのだから辛抱がしきれなくなるのですね、だからある意味では止むを得ないことなんです。ですからその辛抱という所ではなくてね、そのことを神様へのお礼とする信心にならなければいけないと言う事ですね。もう辛抱じゃないです。やあ神様がいよいよ大きうならせて下さろうとする働きがね、このような例えば問題となって現れて来る。
神様が大きうなれ大きうなれと言うてござる。いや神様が大きなおかげを受けて呉れよ、大きなおかげを受けてくれよと言うてござると頂いたらです、その事に対して有り難うございますが出るでしょうが。歯を食いしばって辛抱せんで良かです。又事実そうなんです。芯が大きくなると言う事はそう言う事なんです。心が大きくなると言う事はそう言う事なんです。言わんで済む、言うなら黙って治めるという修行が出来たのですから、今度は黙って治めるだけではなくてです。
その事に対してお礼が言えれると言う事は、今日皆さんに聞いて頂こうとする所のおかげを知らぬからという所が出て来るんです。おかげがおかげと分かる時にお礼を言う事になるのです。「叩かれて強うなれ、笑われて賢うなれ」そんな御教えを昔頂いた事があります。だから叩かれてもじっと歯を食いしばって、今に見ておれというて辛抱するという所から、此の様にして鍛うて下さるんだと分かったら、お礼が言えるんです。それが分かった時に初めて神のおかげが分かったと言う事になるんですね。
叩いた奴は仇のごと思うでしょう。叩き返そうごとあるでしょう。けども信心する者は叩き返しちゃあいかん。打ち向かう者には負けて、時節にまかせてと仰るからじっとっ辛抱する。所謂黙ってそれを治めて行こうとする辛抱。どういう例えば恥ずかしい事を、辱められても叩かれても笑われても、其処で賢うなって行ったり強うなって行く手立てを考える。それが信心だと教えられるわけです。そしてそうして行きゃ成るほど黙って治めると言う事が素晴らしい事だ。
それこそなる堪忍は誰でもするけれども、成らぬ堪忍をするのが本当の堪忍だと言った様な意味が分かってくる訳なんです。だからそれを今度は、堪忍ではなくて忍ぶではなくて黙って治めるだけではなくてです、その事実実体というものがね、私を叩いておるそれがこの人だと思うから腹が立つんです。神様が叩いて下さった理由が、神様が賢うして下さろうとするために笑われておるのだと悟れた時にです、その事に対してお礼が言えれる。それが本当の意味で神のおかげが分かったときなんです。
皆さん神のおかげが分かり神の大恩が分かればです、それこそ子孫も続き身代も出来、達者でもありしかも日勝り、月勝り、年勝りだけではない代勝りのおかげが受けられるとあるのですから、このおかげをなら頂く為には、どういう信心をさして頂いたなら良いかと言う事になる。そうすると神のおかげをおかげと知らなければならないと言う事になります。神のおかげとお取次ぎを頂く、素晴らしいタイミングが生まれて来る。
ああ神様のお繰り合わせを頂いて、有り難いと言う事もおかげですけれども、決しておかげはそれだけの事ではない。それとは反対の事、叩かれる様な笑われる様な事もあろうけれども、そこん所を黙って辛抱する、黙って治めて行けるだけのだんだん、度量と言うか心が出来て来る。そしてそこがおかげになって表れて来るころからです。あぁあれは困った事でも難儀な事でもなくて、実を言うたら神愛であったんだと神のおかげであったんだと分かって来る。
それを繰り返しておる内にです、もうおかげをおかげと分かって来る。もうだから合楽の方々の場合は黙って治めるという体験は十分して来られた訳だから、もうここにその事に対するお礼が言えれる信心を頂きたいというのです。言うならばです。〔咲くまでは草と呼ばれる野菊かな〕これは徹君が以前頂いた御理解なんです。咲くまでは草と呼ばれる野菊かなね。だからその咲くまでが黙って治めるであってね。
もうそこに花が開いた時にあぁあれは普通じゃなかった菊であったと分かる迄が、辛抱であり黙って治めるである。そこにおかげを頂いたらです、ハッキリそこで皆からも見直される事であろうし、同時にそれがその間の言うならば黙って辛抱して咲くまで辛抱しつづけた事に対する、神愛を悟らして貰うてお礼を言えれる信心と言うのです。いわゆるおかげをおかげと分かったわけです。
たった簡単なお言葉ですけれどもね、神のおかげを知らんからと仰っとられる。そりゃお願いをしておかげを頂くちゅうのは、そりゃあ馬鹿でん言うならばおかげと思いますよ。けども中にはねそういうおかげを頂いておっても、いいえ私のやり様が良かったけんという人もやっぱあるのです。そんなつはもう本当にまあ程度の低い信心と言わなけりゃなりません。だれでも初めはそういう所から入って来る訳ですけれどもね、おかげをおかげと分かり、そしていよいよ芯を大きくして行く。
咲くまでは草と呼ばれる野菊かな、その咲くまでの間にいよいよ芯を大きくして行く修行がなされなきゃならない。辛抱する言わにやおられん、そうせにゃおられんそこを黙って辛抱する。そうしてそこからああ言わんでおって良かったせんでおって良かったと言う事にもなるね。そこに神のおかげが分かる様になる。そこで言うならばお礼が言えれる様になった時に、私は芯が大きくなったと言う事ではなかろうかとこう思います。
黙って治めるだけではなくて、辛抱して治めるのではなくて、その事に対してお礼が言えれる心こそ芯が大きくなるのだと言う事です。もう勿論此の芯は限りなく大きくなっていかなきゃならない事です。とてもとてもこんな事、自分の胸に心に憚らない様な事があってもです、それをああ神様が、今こそ大きうなれ大きうなれと言うてござると思うて大きうなる修行をさして頂く、お礼を申してその事を受けて行くという受け方を、限りなく続けて行く所に限りなく心は大きくなって行くでしょう。
その大きな心に大きなおかげが頂けれる。どういうおかげかと言うと、子孫繁盛家繁盛にまでも繋がる程しの、所謂神の気感に適うた氏子とはそういう氏子の事をいうのだと言う事でございます。だからここん所を最後のここの所を皆が頂きたいね。健康でもありたい子孫も続く様なおかげを頂きたい、代勝りのおかげも頂きたい。ならばどういう信心をさして頂いたら良いかと言うと、神のおかげをおかげと分かり神の大恩を分かる。
理屈では分かっても、それを実感として受け止めるのは、大きな心で初めて神の大きな御恩が分かるのです。実感として分かるのです。昨日公子先生がここへお届けに出て参りました。寒修行が始まったから、どうでも毎日欠かさずおかげを頂きたいと神様にお取次ぎを頂きお願いしとったのにも関わらず、二三日体が悪くて出来なかった。昨日の言葉ですから、昨日一昨日の朝お夢を頂いた。信太郎君を抱いてこうビルとビルとの合中の様な所を通っておったところが、上から刃物が、刃物ね、切れものです。
それこそ出刃包丁やらいろんな刀の様な、もうとにかく降る様に落ちて来る。それで信太郎を抱いた。抱いてあっちに逃げまどいこっちに、そして私は悪い事はしとらん、私は悪い事はしとらんのにと言うて逃げまどうておった。その時にフッと神様にお約束しておる事のそれを気付かせて頂いて、済みませんと言うてお詫びをさせて頂いたらおかげを頂いたという事でした。だから公子さん、もう先生方がこんどの四月の二十六日に南米行きが決定いたしました。
それでもう内地におるのもあと僅かですが、公子さんここだけは一丁あんた頂いて行かにゃいけないよと。主人がどんなに頑張って、ならお取次ぎの御用に立たせて頂いても、あそこの嫁御さんな何時でん寝てござる、朝の御祈念にも出て来らっしゃらんと言う事では人は助からんよと。だからね公子さん、今日からはね朝参りをあんたの命と思いなさいと。昨日はある方が、もう大変どうにもこうにも出来ない問題の事をお届けがあって、足の一本位切って捨てても良いからおかげ頂かして下さいというお願いがあった。
もういよいよの時はそうですよね。だから足の一本位の事じゃ神様は聞きなさらんよち、足どん一本貰うたっちゃ何になんなさるの神様がね。(笑い)ああお前の足を貰うたけんでおかげをやろうと、その思いは尊いけれどもね、そう言う事じゃない、命を掛けなさいと。そんなら神様が命を自由自在に今度はお使いになる事になりますから、そんならおかげになろうばってん。
足どん一本貰うた位のこっで神様聞きなさる神様じゃなかばい。ならその事に命を掛ける、どの事もこの事にもと言う事じゃないのだ。お道の教師のしかも家内として、自分も教職を持っておる身でありながら、どうかあるちゃすぐころっと寝る。どうかあるちゃもうすぐどうかと言う様な事では出来んばい。もう今度南米行きを境に、一丁ここだけはあんた卒業して行って本気で一つ朝参りに一つ命を掛けなさい。出来んことはなかって。
もうどげん具合の悪かったちゃ後は寝たって良いから、ハイハイしてでも朝の御祈念には出て来る。その位の根性がなからなきゃ駄目だよと言うてまあ昨日話したことでしたけれどもね。だから私共がこの事には命を掛けると言う事をです、例えば今日は、まず神のおかげを知るための信心修行を黙って治めるという事であるならばです、神の大恩を知るために大きな心にならなきゃ大恩だから、大心を頂かなきゃいけません。
大きな心を頂く、大きな心を頂く為には一つ命にこれも掛けてです、ああ神様がこの様にして大きうなれ大きうなれと言うてござると、その辺の所を阿倍野の先生なんかピッタリと、それこそ十八才の時から頂き止めてござるわけです。食べられんごたる頭をつけても神様がね。親様が人の頭になれ人の頭になれと言うて有り難く頂いて行こうと、尻尾がでた時には王になれ王になれと言うてと言うて、そういう頂き方なんです。
神様はこの様にして大きうなれ大きうなれと言うてござるという生き方を、いよいよ心、それに一つ命を掛けなさいと言う事ね。命を掛けると言う事は、神様の一番喜んでくださる様な事に一つ命を掛けるという私は信心が大事。いわゆる神の気感に適う氏子を目指すのですから。しかも家繁盛子孫繁盛だけではない、代勝りのおかげが受けられるというほどしのおかげの頂ける信心なのですからね。
どうぞ。